私が唯一の神であり、唯一の救い主イエス・キリストを信じた理由
少し長文になりますが、私はこの教会の中における一教会員ですが、一読いただければ幸いです。
人・それぞれの人生があり、環境の違いや考え方の違いもあろうかと思いますが、私にとっての人生を歩むうえで18歳で信じ、現在75歳ですが、本当に信じてよかったと心より神に感謝しています。ぜひ、あなた様も聖書に書かれている神に出会うことを心より願っております。そして、あなたに神の祝福の御手がありますようにお祈りしています。
私は、高校入学直後、父の事故死を経験しました。中学までは父母の愛情の元、将来において何ら特に不安を感ぜず、普通の学校生活をしていました。それまでは、特に深く何も考えていませんでしたが、父の死は突然襲ってきた・なぜ?人の命とは?人間の死を考えると、逆に、人間の誕生・すなわち、自分はいったい何者?私は自分の意志で生まれてきたわけではないのに、なぜ生まれた?なぜ今ここにいる?そして自分も、老いも若きも関係なく、いつかは死んでしまう私っていったい何者?死んだあと、私はどこに行く?人生の目的はただ生きているとき、楽しく過ごせればよい?一生懸命勉強し・一生懸命働いて・結婚して妻と出会い子供をもうけ、そして育て、そのあと私は老人になり、そして死んでいく、人生とはただそれだけの事?まだ、高校生の浅く幼い考え方でありましたが、人生についての疑問は感じていました。
父の死後、時がたつにつれ、父の死が現実のものに感じながら高校生活を過ごしていました。
私は高校生の時、将来、自分の力だけで生きていかなければならないという、将来に対して期待を持つとともに、大きな不安を覚えるようになりました。
心の空白を埋めるべく、学業の他、クラブ活動、そして他校の高校生を交えた社会奉仕サークルにも入り、その間も現代青春論や様々な人生論の本等を読みつつ、多くのディスカッションもしましたが、自分に確たる自信を持つことが出来ず、このまま高校を卒業して社会人となって、世の荒波に流されて、押しつぶされる人生になる一抹の不安があり、人生について何かを掴みたい、それ迄、もう少し時間が欲しいと考え、急遽大学に進学することとしました。4年間あれば、何かを掴むことができるのではないかと考えたのです。
高校生の時、近所の方から創価学会に入信することを強く熱心に勧められました。何もわからないまま、その集会に参加してみました。学会員の方々は、熱心にただただ全員で、一つのお題目を唱えていました。私にとって異様な雰囲気でした。勧められるまま、学会のお寺に連れていかれ、お坊さんからの儀式を受け、1枚の印刷された曼荼羅を授かりました。そして、「何無妙法蓮華経」とのお題目を唱えるようにとの指示を受けました。
ご本尊とされるその印刷された1枚の紙に向かって、只、ひたすらにお題目を唱え続けるだけのことに対して、少しずつ、抵抗感を感じていました。
それは、1枚の印刷された紙の前で一途に同じ言葉を言い続ける姿を見ていると、私が求めているものとは全く違うものを感じました。1枚の紙に向かって、そのお題目の意味さえ知らず、また、仮にもし知っていたとしても、その事だけを言い続けるだけなら、暗示にかけられているだけのものと思い、私は集会に出席しないようにしました。勿論、学会の方からは、反論もあろうかと思います。また、信教の自由もありますので、私の言葉は、高校生であった自分の感じたままの感想です。学会の方々からは、途中でやめると不幸になるとか、地獄に落ちる等いわれましたが、何かしらそんなのおかしいと思い、気にも留めませんでした。
社会奉仕サークルの中に、キリスト教関係のミッションスクールに通っていた学生もいて、日曜日に、学生向けの日曜学校があることを知らされ、招待を受けたので、行くこととしました。
そこは、全くの自由で、創価学会の集会とは全く別のものでした。神を信じるか否かは強制されるようなものではなく、個人の自由意思で決めるものでした。暗いイメージは全くなく、牧師さんの語られるメッセージの内容は、その時点では信じるには至らなかったのですが、聖書の話に何かひきつけられるものを感じ、集会には、自らの意思で行きました。行って聖書の言葉をもっと聞いてみたい、集会の雰囲気はとても明るく、神を賛美することが当然の気持ちになり、何かしら、それが自然で美しいものとして、心に安らぎを感じていました。
高校生活の終了とともに、私は知り合いも全くいませんでしたが、希望と期待を持って、名古屋の大学へと入学し、下宿をし、入学式を待っていました。
その時、下宿していた近くのキリスト教会で、春の特別伝道集会の案内の看板を見つけました。下宿していた中の数人の人達と、その集会に出席しました。他の人達は冷やかし半分での出席のようでしたが、私は教会の日曜学校に出席していたこともあり、良きイメージがあったので、集会に行きました。その時の教会はまだ、人数が少なく、私のイメージとは少し違っていましたが、語られるメッセージの内容に何か心が引き寄せられていくものを感じていました。3日間の集いでしたが、私は3日とも出席しました。3日間の集会の後、私は牧師から個人的に聖書の内容のことを教えられました。
牧師は私に対して、聖書は「すべての人は罪びとである」と書かれていますと言われ、私は世間的な標準でいえば、私は悪人ではなく、少なくとも悪人にはなりたくないと常に思っており、少なくとも、犯罪人ではないといいました。むしろ、善人の部類に入っていると思っていました。しかし、表面は善人ぶってはいるけど、自分の心の内側を見ると、他人様には恥ずかしくて言えない不浄な心もあり、醜い自分が存在していることも、自分ではわかっていました。故に、聖書に書かれている、すべての人は罪びとであるという言葉には、逆らうことはできませんでした。
牧師は、更に、私たちの内にある道徳的な罪もありますが、それよりも、もっと大きな罪が人にあるといいました。それは、人は、すべてのものの創造主である神を、礼拝すべきなのに、神ではない神の創造した被造物、すなわち、月や星や太陽・大いなる大地・巨木・奇岩等の自然物への崇拝。ヘビ・きつね等の動物又、歴史上に出てくる人間などの動物信仰・ただ、単なる言い伝えによる神信仰、そして、それらを人の手によって作った偶像にひれ伏し、それを、神として拝んでいること。
天地万物の創造主なる神は人間が造った小さな器(偶像)には入らないし、人間が捧げるものを食することはありません。人は創造者である眞の神ではなく、全く違う神の創造した被造物や偶像を神として、それを礼拝しているのです。神はそのことを罪としています。神によって造られた人は人間にとって、神は父であり母であります。でも人は、創造主である父母を礼拝せず、全く違う他人を父母として礼拝して喜んでいるのです。人は、生まれた時より、母の胸に抱かれ、本当の父母の愛の中にある時が一番の安らぎを得るものです。故に、人は真の自分の創造主であり、そして眞の神の内にあることが、人生の目的であり、そこに喜びと安らぎがあるのです。神の示された唯一の救い主イエスキリストを信じ、その救い主を信じる信仰によって、神に許され、神との交わりを持つことが幸せと喜びの道なのです。神は全ての人が救われることを願っています。創造主である神は、同時にすべての主権者でもあります。罪に定める権利も、罪を罰する権利も、罪を許す権利も、愛する権利も、罪びとを救う権利も、救う方法も、神の主権にあるのです。聖書には、「人は一度死ぬことと、死んだのち、神の裁きがある」と書かれています。神は、一つの方法でのみ、許しと、祝福の方法を人に示しました。その道は神が示された救いの道のみを信じることです。信じるだけのことは、誰でもできます。神はあなたを愛しておられ、すべての人が、神の裁きから救われることを願っています。お金も、難行苦行も必要ありません。権力も力も必要ありません。神が人に与えた、神の御子キリストは、あなたの罪の身代わりとなって死んだこと、そして、神ご自身の権威と主権によって、3日目に復活したことがすべて、私の為であることを信じて、自分の罪を認め神の御前で告白をすれば救われますと書かれています。聖書の中の神の裁きは「罪の支払う報酬は死です。」と書かれています。この「死」とは、第2の死です。すなわち、あなたがあなた自身である魂・霊の死です。その死とは、聖書には歴然と「地獄」の存在が示されています。地獄は本来の仏教の教理ではありません。聖書によれば、地獄とは、神との永遠の断絶であり、暗黒の世界であり、悪魔がともにいる場所で、救いはもはや何もない世界です。そして、「火と硫黄の燃える地」だと書かれています。そこに、神の裁きによって投げ入れられた魂は、あまりにも苦しくて死にたいと願っても、死ぬことができない場所で、その魂は永遠から永遠に燃え続けると書かれています。しかし、裁き主でもある神は、愛の神でもあります。人の裁きの時、人に与えた唯一の救いの道である神の独り子イエスを人の世界に誕生させ、罪のない神の御子が罪ある者の為に、神の罰を代わりに受け、十字架の上で死んだこと、そして3日目に復活したこと、それが、あなたの為であることを信じること、すなわち、神の愛・神の救いの道を受け入れたもの・このことを信じ受け入れたもののみ、罪が許されたものとして、本来罪あるものであるが、その信仰の故に罪なき者として許され、神が用意された天国に入ることが許されるものです。神の愛が最高であるように、裁き主としての神の怒りも最高なものなのです。聖なる神は罪を許すことができません。私の神であり、私の救い主は、人生を送る間にも私の神として存在してくださいます。死後の世界においても、神の裁きの座において、罪が許されるのです。

すべてをご存じであられる神の前で、私のすべての罪が許される喜び・そして神が用意してくださっている天国に入ることができる喜び・そこは悪魔の存在しない、嘆きも悲しみも苦しみもない世界、神とともにいる世界なのです。私は、これらの聖書の話を聞いた時、思わず地獄には行きたくないと心の中で叫びました。自分は神の前で罪びとであることは事実であり、本当のこと。私の魂が地獄にもし行ったなら、永遠から永遠に苦しみ続ける。絶対に行きたくない。その恐怖が私を覆いました。そして、その中で、神の愛・十字架による罪の許し・私は神の愛を感謝して素直に受け入れました。そして、私は神の前に感謝しました。神に許されたことで、涙が出てきたことを思い出します。信じた後でも、決して一時的な感情ではありませんでした。今でもその罪許されたことの喜びと感謝でいっぱいです。私は、私自身の弱さと未熟の中に、人生の中で多くの失敗をし、犯罪ではありませんが、神の前で多くの罪を犯しました。私が欲している善は自分の行動として行うことが出来ず、自分が憎んでいる悪が、自分の行動として表れてしまうのです。人間の心の中に潜む悪との戦い、本当に私は罪深い人間だといつも反省の毎日です。このようなものですが、神は私を許してくださいました。神は、私を決して見捨てることはありませんでした。神を信じた後、聖書の言葉を信じてよいのか、一時的な感情ではなかったかを、なんども自分自身に問いかけました。聖書の御言葉が科学的であり、また多くの宗教の中でも、何千年という歴史に耐え、教理が一度も書き換えられることもなく、真理そのものであることを確認しております。私は比較宗教学としての学習の中においても、聖書の真理性を見出しております。
最近、NHKや他局のテレビで天体の神秘と星空の美しさに感動します。また、地球の大地の壮大さと美しさにも感動します。動物が吐く二酸化炭素(CO2)を植物がそれを吸収して酸素を供給する。このシステムがなければ動物は生きることが出来ず、植物もまたそうなります。なんと素晴らしいシステムであり、ハーモニーなんでしょうか。これが自然にできたものとは、私は到底考えられません。また、地球の動植物の形態や珍しい動植物を紹介している番組を、いろいろ見て思いますが、神様はいろいろな動植物を創造されたものだと思いながら、可愛いと思う動植物もあれば、変な動物もあります。でも、それらの動物は朝から晩まで餌のことだけを思って行動しております。自分が進化しようなんて思って行動はしていません。
すべての動植物は、同じ種族でしか交尾はしません。海の生き物でも、陸の生き物でも、すべてがそうです。植物でも同じ実を作る種しか作りません。
生命が誕生する姿を見ていて、生命のすばらしさに感動します。人間は、命そのものを作ることは絶対にできません。例えば、身近なところでは、ニワトリの有精卵は21日間温めると可愛いヒヨコが生まれます。ヒヨコは、生まれるとすぐ歩き出します。なんという生命力なんでしょうか。この命の創造は誰かが、このシステムとDNAという設計書を作らなければ、ただの自然力だけではできません。人間でもそうです。地球の地図上における全く違う種族の人でも、人間ならば、必ず人間の子供が誕生します。他の動物もすべてがそのようになっています。私は、猿とは絶対に結婚はしません。気持ちが悪いです。仮に、科学者が人間と猿のDNAを結合させても、絶対に子供はできません。DNAが違うからです。その生命を誕生させるそのシステムとDNAは、設計する人がいなければできません。進化論のいうように、純粋なる偶然の産物という主張は信じることはできません。
すべての命の根源は、同じ種類を選びます。聖書の一番最初に出てくる創世記の中に、神が動植物を創造する過程で「神はその種類したがって創造した」と記されています。現在の科学でもこの種類の壁は破られていません。この言葉はとても科学的です。今から約4000年以上前に記されているのです。日本では、縄文時代以前の古代狩猟時代です。命という神秘はすべて神の創造によるものです。これら一つをとっても、私は、聖書は人間の考えによらない神からのものだと思っています。私も、この文章を読んでくださっている方もいずれ人生の幕を下ろす時が必ずあります。死んだあと、無になるのではないか、神は存在しないという考えもあることは私も知っています。しかし、人は人生の幕を下ろしたとき、すなわち、人生が終了したのち死を迎えた時、聖書によれば、死んだあとは一時的に眠りにつきますが、そのあとは神の裁きの座にすべての人が出なければなりません。しかし、その時はすでに救いの道は閉ざされているのです。仮に、イエスキリストの救いの道が事実でなく、すべて、無になったとしても、私は何も失いません。逆に、キリストイエスの救いの道が、事実であったなら、信じないで人生の幕を下ろした方は何を失うのでしょうか。信じる者にとっては、神が約束された永遠の命を得ることになるのです。地上での体があるように、神様から天上の体が与えられるのです。信じる・信じないかは自由です。神が自由意思をもったお方であり、その神の形のごとく創造された人も、自由意思を持ったものとして造られました。人間には自由意思が与えられています。しかし、その結論の結果は、その人が負うのです。神様は神ご自身の独り子であられるイエスキリストがすべての人間の罪の代償としての罰を罪のない神の独り子がご自身の意思でその身代わりとなって十字架の上で命を落すことを許されたのです。
神様の正義は「罪の支払う報酬は死です」。これは神の持つ厳しい掟なのです。神はご自身の聖さのゆえに罪をそのまま許すことはできません。罪あるものが罪あるものを許すことはできません。しかし、罪のないお方がその身代わりとして、その罰を受けてくださいました。なんという神の愛でしょうか。神の子の愛に私たちはそれを受け入れることが必要です。救いの道はたった一つです。神の子の救いの道を自分のものとして受け入れることです。しかし、神は3日目に復活し、弟子をはじめ、多くの人の前によみがえったご自身を表してくださいました。死んだ人の体が3日目によみがえったこと、こんなことは信じられるでしょうか。しかし、当時の人達がそれを見ているのです。人間には、奇跡と思われることでしょうが、神は全知全能の方であり、生命をも創造された神ならば、それは奇跡でも何でもありません。聖書の予言通り、3日目に復活したのです。そして、救い主イエスキリストは、多くの人が見ている前で、天に昇って行かれました。イエスキリストは救い主として、この世に生まれましたが、神はもう一度この世界に復活した姿で来られます。しかし、その時は裁き主としてです。聖書は、今後この世界において起こる様々なことをも、予言しています。今まさに、その予言のひとつひとつが表れています。神は、あなたを愛しておられます。あなたが救われることを願っています。私たち教会員一同、多治見の皆様が、信じ救われることを願っています。多治見教会はその為にあります。どうぞ、教会の門をたたいてください。まだまだ、書きたいものも多くありますが、お父さんの文章はあまりにも長すぎると、妻は笑っています。どうか、あなた様の上に、神の恵みと祝福がありますようお祈りします。私のつたないものの長文を読んでいただいて感謝します。




